写真で見る寿製薬

写真で見る寿製薬

1. 創業当時:長野県産の生薬から有効成分を抽出しました。

杏

杏(あんず)から杏仁水(きょうにんすい)(鎮咳・去痰薬)を製造しました。


はしりどころ
抽出機当時のロートエキス抽出機

はしりどころからロート・エキス(健胃薬)を抽出しました。


杏

セネガからセネガ・シロップ(鎮咳・去痰薬)を製造しました。


2. 合成医薬品

杏

カモミールに含まれるアズレンを化学修飾することで、マーズレンS配合顆粒やマーズレン配合錠ES(胃炎・胃潰瘍・十二指腸治療薬)並びにアズロキサ顆粒2.5%、アズロキサ錠15mg(胃潰瘍治療薬)の開発に成功しました。


杏

キャベツに含まれているL-グルタミン(胃炎・胃潰瘍・十二指腸治療薬)もマーズレンS配合顆粒とマーズレン配合錠ESの原料になっています。


杏

生体内で多様な役割のある「糖」に注目した化学合成研究も行っています。


杏

リンゴの樹皮に含まれる配糖体であるフロリジンを基にスーグラ錠を開発しました。


蕎麦の花

蕎麦などの穀物の胚芽成分に含まれる植物ステロールの持つコレステロール吸収を抑制する作用に着目し、コレステロールの吸収を抑えることで血中のコレステロール濃度やLDL濃度を下げる薬剤の開発を行っています。


蕎麦の花

郷土の生んだ山極勝三郎 博士(1863年~1930年。初代 東京大学医学部病理学教室教授、ノルドホフ・ユング賞受賞。コールタールをウサギの耳に塗り続け、世界で初めて人口がんの発生実験に成功し、有色人種としては初めてノーベル賞候補となる。)の遺志を受け継ぎ抗がん剤も研究しています。

がん征圧(寄付金つき)郵便切手
がん征圧運動の一環として郵政省では、山極勝三郎の写真付きの寄付金切手を売り出した。
初版:昭和41年10月21日

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泌尿器関連疾患の研究もしています。


寿製薬社章:
この社章は創業者・故 冨山 節が考案したもので、創業以来使用されている。
菱形は炭素よりできるダイヤモンドを表し、6つのダイヤモンドで6角形にしているのは、有機化合物の基本となるベンゼン環を意味している。

創業当時:


第二次世界大戦末期の昭和20年4月、当社の創業者・冨山 節(明治41年生まれ。旧制 長野中学校[現 長野県立長野高校]卒。昭和6年、明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]卒。)は、ペニシリンを製造していた中島化学工業株式会社(長野市川中島)の経営に代表取締役 常務として参画するとともに、長野市豊野町の合資会社・寿商会(現 寿高原食品株式会社、千曲市戸倉上山田)にも50%出資し、代表社員として共同経営者のポストにあった。当時の寿商会では杏ジャム、リンゴジャム、ボイルなどを製造していた。また当時の製薬許可は、一定規模の作業所を有することが条件であったので、豊野町に有った寿商会にはボイラーなどの設備や敷地等、許可を受けるのに十分なだけのものがあり、冨山は寿商会の工場の一隅を作業所とすることで製薬業の許可申請を行った。この手続きは困難を極めたが、昭和24年2月11日、ついに寿製薬所を創設する。当社名の「寿」もここに由来する。昭和25年になり寿商会の三人の息子様達が無事戦地から復員すると同時に独立し、長野県埴科郡坂城町に現在の寿製薬株式会社を発足させる。
ここで冨山は杏仁水(鎮咳剤)の製造に着眼する。杏仁水とは、この薬の原料が杏の種の杏仁であることからこの名前が付く。信州、特に千曲市の森の里は「森の杏(もりのアンズ)」として全国に知られた有名な杏の一大産地である。寿商会では杏の果実から杏ジャムを生産していたので、杏の果実から杏の種が外され、無償で捨てられているのを見た経営者で薬剤師でもあった冨山は、廃棄物である杏の種から杏仁を搾取し、天然の杏仁水を生産しようと考えた。さらに杏の種から杏仁を搾取した後の殻は大変熱量があり暖炉に入れると普通の炭よりも火持ちがよく、販売することができた。最盛時の生産量は年間2万リットルで、日本の生産量の80%を生産するに至った。また、創業者と同じ明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]卒の薬剤師でもあった妻の通子は、当時を振り返り、「大変貴重な杏仁を、ただ捨てていたことは信じられなかった。」と後に述べている。
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生産種目の拡大:
セネガシロップ(鎮咳剤)の原料のセネガ根は、当時北アメリカからの輸入品であった。そこでコスト低減や当時奨励されていた国産化のため、当地で栽培を始めた。そこでセネガ根を栽培して、厚生省に持参したところ、物質不足の時期でもあったので、大変歓迎された。早速シロップ用の砂糖を特別配給されたものである。厚生省の紹介で、島根、鳥取、奈良、東京都などの薬務課員が、種子の分譲を求めて当社を訪れることも多かった。当時のセネガ根は、セネガサポニンの含有量も北アメリカ産に劣らず、むしろ優れていることが、当時の藤田路一教授(東京大学薬学部生薬学教室)の研究で明らかになった(昭和27年、生薬学雑誌)。
ロートエキスの本格的な生産は昭和28年の高価な真空濃縮機に始まる。ロートエキスとはロート根というナス科の植物の根茎に希アルコールを加えて浸出させて製したエキスで消化液の分泌抑制・鎮痛・鎮痙薬として用いられていた。また当時ロート製薬が「パンシロン」の発売を始め、昭和30年になると、「パンシロン」の主原料・ロートエキスの大部分を当社が納入した。またロートエキスの生産量では、全国の80%~90%に達した。しかし、ロートエキスの定量ではバラツキがあり、当社研究所や国立衛生試験所、長野県衛生試験所などで同一のサンプルを試験し、品質の確保に最大限努めた経緯もある。
ルチンの本格製造は昭和31年から開始された。当時、上田化学株式会社という会社でクロロフィルを造っていた菊池氏兄弟は、もう1社、日本ルチン株式会社という会社を持ち、社名の通りにルチン(血糖降下薬)を製造していた。その日本ルチンを当社が引き継いでくれるよう、代表の菊池氏から要請されたのである。当時ルチンはヨーロッパにも輸出されており、2交代制を敷いたほどである。当時のルチンは武田薬品工業や問屋を仲介して各メーカーに出荷された。

合成医薬品の製造:
生薬の原料である薬用植物は、その年の天候や産地に左右されて品質が安定せず、市場価格の変動も激しかった。また1年分の原料を一時に購入しなければならず、資金運用の面でも負担は大きかった。さらに原料を大量購入しても、原料価格が安くなると、製品価格も安くなり、リスクも大きかった。このような背景もあり、昭和36年頃から冨山 剛相談役を中心として生薬のバルク製造と並行し、また欧米との特許制度の差を利用して化学合成品製造へ転換する。最初に取り組んだのは塩酸フェンホルミン(商品名/ジベトン)、塩酸ブホルミン(商品名/ジベトンS)であった。特に塩酸ブホルミン(商品名/ジベトンS)は国産初の腸溶性製剤であったので、日赤中央病院から製造工程の見学に訪れた。当時、腸溶剤のコーティング機械はなく、釜を独自に加工し独自のコーティング機械を作り、製剤化に成功した。また昭和42年頃からクロフィブラート(商品名/ピノグラッグ)の生産が急増した。製品は自社で販売したり、製剤バルクとして大手数社に卸した。このクロフィブラートは国産1号ということで厚生省の特別な配慮を受け、許可および薬価も短時間で収載してもらえた。

さらに昭和44年6月になると当社の主力製品である「マーズレンS」が発売された。

 40周年記念社史 鳳雛

                                    「40周年記念社史 鳳雛」 発刊
  • 弊社創業者・冨山 節が昭和57年3月17日に坂城町立坂城中学校開校20周年を記念して、「鳳雛」の書と銅像を寄贈しました。また、このニュースは平成29年3月14日発行の坂城町立坂城中学校の学校だよりにも掲載されております。
  • 弊社 取締役相談役の冨山 剛が、1983年12月に新設の坂城町役場の正面に銅像(真道 茂 作)を寄贈しました。
鳳雛(坂城町役場)

創業者・冨山 節を偲ぶ。
 当社の創業者・冨山 節は明治41年、長野市川中島 酒井譲助の三男として生まれた。幼少時は母親の勧めにより景気にもさほど左右されない薬剤師の資格を採り、将来は薬局を営むことを決意する。旧制 長野中学校[現 長野県立長野高校]卒、明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]入学。昭和5年に同級生の五十嵐 久四朗氏らと山岳部[現 明治薬科大学ワンダーフォーゲル部]を創部する。昭和6年、明治薬学専門学校 卒業。同年、長野赤十字病院勤務。昭和10年、株式会社 和光堂に試験研究室員として入社。同級生から製薬会社設立の報がもたらされ、経営スタッフとしての参画を求められ、昭和16年、株式会社 三栄産業入社、昭和18年4月、同社 専務取締役に就任する。また株式会社 三栄産業では主にブドウ糖の注射薬や痛み止めの薬品を旧日本軍に納入した。最前線の鹿児島工場を始め各地に工場を持つが、アメリカ軍の空襲が日常的に行われ、各地の工場も戦火を被る。特に鹿児島工場への移動中に爆撃・機銃掃射を受けるも九死に一生を得る。昭和19年、体調不良のため長野に帰郷する。昭和20年4月、中島化学工業株式会社(長野市川中島)に代表取締役 常務として主にペニシリンの製造に参画するとともに、長野市豊野町の合資会社・寿商会(現 寿高原食品株式会社、千曲市戸倉上山田)にも50%出資し、代表社員として共同経営者のポストになる。昭和20年8月15日、第2次世界大戦終戦。
昭和24年2月11日、寿製薬所 設立。同年、代表取締役社長。
昭和25年の寿製薬株式会社設立後はロートエキス、セネガシロップ、ルチン等の生薬製造の中心的役割を担った。
昭和57年、死去。勲三等瑞宝章受章。従五位上に叙せられる。


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